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沿革

西村伊作西村伊作

1921年
文化学院開校

前年に西村伊作は、歌人与謝野寛、晶子夫妻、画家の石井柏亭氏らと新しい教育を語り合い、長女アヤが小学校を卒業した時をきっかけに、3氏と共に1921年、御茶ノ水駿河台の地に開校。 のちの婦人運動家河崎なつも参画する。芸術や文学による人間教育を目指した文化学院は、国の学校令によらない自由で独創的な学校として始まった。校舎はイギリスのコテージ風に伊作がデザインし、教育は一流の芸術家、学者、識者によってなされ、服装も各自の好みにまかせる。 また中学部では、日本で最初の男女共学を行い、伊作の長女アヤを含む30名の中学生を一期生としてスタートした。

創立時の校舎創立時の校舎

1920年代
一流の芸術家・学生たち

中学部の幼い生徒たちにも、当時の一流の学者、芸術家たちが親しく教え、職業的な教師によらない高踏的な人間教育がなされた。
石井柏亭が率いる二科会の山下新太郎、有島生馬、正宗得三郎、中川紀元等や水彩の赤城泰舒が美術面を、また与謝野寛・晶子夫妻、有島武郎、茅野蕭々、戸川秋骨、竹友藻風、エドワード・ガントレット等の作家・文学者が文学方面を担当し、後には奥野新太郎、菊池寛、堀口大学、佐藤春夫等がつづいて加わる。音楽では、山田耕作、伊達愛、萩野綾子、浅野千鶴子、ハンカ・ペッオード等がそれぞれ毎週幾クラスかを受け持った。

川崎なつ川崎なつ

1923年
新校舎落成と関東大震災

木造4階建ての校舎を増築したが、落成直後に関東大震災に遭い、創立時の英国コテージ風の建物と日本庭園ともども消失。このため同年内に、残された新校舎の半地下室の煉瓦とコンクリートの基礎の上に再び木造2階建て校舎を建築し、授業を継続した。

与謝野寛、晶子夫妻与謝野寛、晶子夫妻

1925年
大学部・創設

4年制の中学部につづく大学部として本科(現在の創造表現科)と美術科を創設。教授陣もさらに充実を図り、ノエル・メヌエットの仏語による仏文学史の講座をはじめ、豊島与志雄、芥川竜之介等も講義。菊池寛を文学部長に迎えてからは、川端康成、横光利一、小林秀雄等が創作と文芸評論を担当、三宅周太郎、北村喜八、伊籐筰朔が演劇と文学方面に多彩な力強さを発揮した。
この年「賀頌」(与謝野晶子・詩、山田耕作・作曲)を式歌とする。

校舎から中庭の眺め校舎から中庭の眺め

1930年
代思想弾圧のころ

世界恐慌、ドイツでのナチスの台頭、満州事変などの時代に、文化学院は心ある人々からオアシスのように慕われ、戦時中も自由主義の教育を続けて世評を恐れなかった。
三木清、田中美知太郎、福武直、清水幾太郎等が講義をしたのはこの頃である。

指導する石井柏亭指導する石井柏亭

1930年
各科改称

本科を文学部、美術科を美術部と改称。
文学部長に菊池寛、美術部長に石井柏亭、女学部長に与謝野晶子が就任。また、与謝野寛が学院を辞す。

創立10周年、中央が西村アヤ創立10周年、中央が西村アヤ

1931年
西村アヤ教壇に立つ

大学部を第一回生として卒業し、さらに米国マサチューセッツ州のマウントホリヨーク大学で英文学を学んだ伊作の長女西村アヤは、帰国後、文化学院の教壇に立ち、現在の高等課程の英語科の創設を手がけた。

1932 ~36年
文学部長交代

1932年~35年 千葉亀雄が文学部長

1935年 与謝野寛 病没 学院葬

1936年 佐藤春夫が文学部長/アーチの校舎完成

1942年
与謝野晶子 病没

佐藤春夫佐藤春夫

1943年
文化学院閉鎖

文化学院強制閉鎖。日本は中国、アジアの権益を拡大し、軍部の帝国主義は創立以来の自由し思想が国の方針に合わないとして、校長西村伊作を拘禁し、学校を強制的に閉鎖する。校舎は軍部が接収し、連合軍捕虜収容所となる。

アーチの校舎アーチの校舎

1945年
終戦

校舎が返還され、西村伊作は未決のまま、解放される。

文化教会文化教会

1946年
文化学院再開

終戦と共に軍に徴用されていた校舎が戻り、校長の不敬罪も学院の閉鎖も自然解消となる。
文科を中心に再開し、西村伊作の無宗教の修養講座「文化教会」を立ち上げ、各方面の識者による教科、講義が始まる。

再開まもない頃の講堂での授業再開まもない頃の講堂での授業

1946年
3科創設

美術科、日曜美術科、英語科(現高等課程の前進)を創設。院長に西村伊作、学監(英語科科長兼任)に石田アヤ(旧姓西村)。48年に戸川エマが文科主任となる。

1949年
デザイン科設立

土曜日のみのデザイン教育を行うデザイン科を設立。主任は伊作の次女、坂倉ユリとなる。

棟方志功による版画の授業棟方志功による版画の授業

1950~58年
科の新設と変革

夜間美術科新設(2年制)。西村八知が主任に。
英語科を3年制の英語ハイスクールに。石田アヤが主任。
文科は戸川エマが主任。
美術科科長に西村八知・村井正誠主任。
文科、美術科ともに3年制となる。

村井正誠村井正誠

1963年
世代交替

創立者である西村伊作が没。
校長に石田アヤ、文科科長に戸川エマ。理事長は伊作の長男、
西村久二となる。

新校舎新校舎

1966年
新校舎完成

木造2階建の旧校舎に代わって5階建ての校舎完成。
アートアンドクラフトセンター設立。

西村久二西村久二

1967年
建築科設立

理事長西村久二が科長を兼任。
山梨県清里に文化学院清里寮完成する。

1968年
高等部

高等部は英語科と美術科の2科となる。

1972年
専修学校

文科、美術科は専門課程。高等部英語科、美術科は高等専修課程となり、文化学院は専修学校となる。
85年には高等専修課程修了生は大学受験資格が与えられ、88年には専門課程卒業生には4年制大学への編入資格が与えられるようになる。

文化学院芸術専門学校文化学院芸術専門学校

1982年
庄和町校

1973年から庄和町グランドとして学生や教師、卒業生たちのレクリエーションの場となっていた土地に陶磁科を新設する。

西村利根立花利根

1985年
文化学院芸術専門学校を開校

庄和町グランドの地に高等学校の課程に相当する芸術科を設立。陶磁科と一緒に文化学院芸術専門学校として埼玉県から認可を得る。
85年戸川エマ没。文学科科長に石田アヤの長女、立花利根が就任。
87年軽井沢に文化学院学生寮を設立する。

1988年~1991年
世代交替

第一回の卒業生として、また教育者として永く学院の歴史とその歩みをともにした石田アヤ校長が急逝。後任の校長に西村八知が就任する。
さらに1991年には、建築科や文化学院芸術専門学校の設立に力を尽し、新時代の文化学院を確立した西村久二理事長が亡くなる。その後、新理事長には西村礼門が就任。また西村礼門が務めていた文化学院芸術専門学校の校長には大山美信が就任した。

ル・ヴァン美術館ル・ヴァン美術館

1997年
ル・ヴァン美術館開館

軽井沢の南に「ル・ヴァン美術館」を開館。建物は創立当時の文化学院の校舎を再現した。
「大正の夢と風~文化学院の歩み」を常設展示するほか、年毎に企画展を催している。

2004年
新科設立

高等課程デジタルデザイン科を新設。
科長に坂倉竹之助。

2008年
新校舎が2008年2月に完成

新校舎が位置するのは、創立以来変わらない御茶ノ水駿河台。

2009年
新しい時代に輝く個性を育てるために、先人が守り抜いた『自由』や『情熱ある感性教育』を引き継いで、新たにスタート。

新校舎落成を機に新しい時代で活躍できる個性を育てようと学科編成・カリキュラムを一新。学科は放送・映画学科 / 放送コース、映画コース2コースと総合芸術学科 / 音楽・ダンスコース、演劇・声優コース、総合デザインコース、美術・クラフトコース、文芸コースの5コースを新設。専門課程は2学科7コースの2年制。高等課程は3年制で総合芸術科の演劇・音楽・ダンスコース、文芸コース、美術コースの3コースを新設。校長には戸田一雄が就任。

2010年
与謝野馨氏が文化学院院長に就任

与謝野院長は創立者・西村伊作とともに学院の基礎を築いた歌人でもある与謝野晶子・寛夫妻の孫にあたり、学院とゆかりが深い。顧問的な立場から文化学院全体の運営全般にあたることとなった。

2011年
理事長に上村武志が就任
文化学院は創立90周年を迎えました

文化学院の創立は1921年。2011年の4月、お蔭様で90周年を迎えることができました。これも一重に今までに数多くの方々がご尽力を下さった賜物です。今後も『感性豊かな人間を育てる』ことを教育方針にさらなる飛躍を目指し100周年に向けて歩んで参ります。

2012年
校長に星幸典が就任
2013年
未来に向けてコースの再編を実施

2013年度の学生募集及びコース運営体制にあたっては専門課程のコースの再編を下記のとおり実施。専門課程では現在の2学科4コースを総合芸術学科/声優・演劇コース/美術コース/文芸コースの1学科3コースに統合し、より文化学院の芸術性を明確に打ち出すことで伝統校として更なる芸術分野の発展に貢献をする姿勢を構築するものとした。
高等課程については現在の総合芸術科/1学科3コースのアクターズコース/美術コース/文芸コースは現状維持とした。伝統と最先端性を考慮した芸術教育を実施する。

2014年
理事長に相川英三が就任
2014年
御茶ノ水から両国へキャンパスを移転

新校舎が位置するのは、JR両国駅から徒歩1分の場所。両国国技館や隅田川など歴史深い街。

2014年
校長に佐竹俊夫が就任

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