立花利根
NHKのディレクターが学院に見えた。60年前、学校の校舎であったことを知りたいそうだけれど、そのあたりの事情は21年前に一度TBSでドラマ化され、『二つの祖国』という題で放映されたのだが、第二次大戦末期の捕虜収容所のことなのだ。同じ頃、NHKでも、『忘れられない日本人』というテーマで大戦中の捕虜だった人の30年を振り返る旅が収録・放映された。
国連軍の兵士が捕虜になって校舎に収容されていたことがある。その時学院は國是に合わない教育をするからと閉鎖され、空家を守っていた小使いさん(今の言葉では用務員)夫妻は、借り手となった陸軍の捕虜収容所で捕虜の食事などのお世話をすることになった。
戦時下の日本自体ひとびとの生活はきびしく、貧しかったが、それにもまして囚われている兵士達の食事は惨めなものだったらしい。その状況でも小使いさん夫妻、仁科さん達は厳しい陸軍の目につかぬように食事を工夫し若い兵士の面倒をみているうちに、「パパさん、ママさん」と呼ばれるようになったらしい。学生を愛しんだと同じように国籍や人種の異なる19人の兵士達を可愛がり、言葉はよくわからなくとも心と笑顔で通じたのだと思う。もっとも、仁科のおじさんは頑固者で、私の覚えている限り、笑顔はまずない人だったが、誰にも誠意のある頑なさで接していたのは間違いない人だった。
戦いに敗けた日、陸軍は捕虜達を殺そうとしたらしいが、心ある軍人の計らいで脱出に成功し、どこか安全な所があったのか、運ばれたようだ。書類だけは焼き捨てられたものの、軍人の去ったあとには家具や文具はそのままに残されて、校舎は再び祖父(西村伊作)のものとなった。祖父は思想犯として囚われていたが、終戦で未決のまま学院に住むことになる。自宅は焼けてしまったので。
そして、仁科夫妻はまた小使いさんとして校舎を守り、おばさんはにこにこ、おじさんはむっつり、学院に根をはやしていた。
文化学院を訪れたドッズ夫妻(中央がドッズ氏、左隣がローラ夫人)
収容されていた兵士たちが時々訪れて来て必ずたずねるのが「ママさんは?」と「パパさんは?」であった。私の叔母の夫となった人もこの収容所に居た一人で、オランダ人だった。彼もまた仁科さん達を大切にしていた。
祖父が再び学院を開き、若い人達、戦場から復員して学びを求めた人達であふれた頃、再び小使いさん夫婦として働いていたが、おじさんは亡くなり、おばさんは引退した。
「仁科の葬儀は学校の講堂でする」と祖父が言った。母(アヤ)も学院育ちの戸川エマ先生もオランダ人の叔父も、西村家の番頭さんだった大嶋さんも大賛成であった。
葬儀は祖父の司会で行なわれ、生徒も事務職の人達も出席し、講堂いっぱいの人が仁科のおじさんを見送った。
パパさんが亡くなり、ママさんが息子さんのもとへ帰られて、収容所だった校舎も、そのあと建て替えられ、陽当たりの良い、半地下の、畳敷の仁科夫妻の居室もなくなり、五階建てのコンクリートの校舎が新しく建った。
建物は消えてしまった。人もまたそれぞれの思い出をかかえたまま消えて逝く。
20代の若い兵士達、国籍も境遇も言葉も違う彼等からパパさん、ママさんと呼ばれた仁科夫妻も今はない。そしてこの話もいつかは消えてしまう。21年前の番組でも、兵士達の物語や、日本の軍人の物語は立派に表現されていたし、その折に訪日した元捕虜のドッズ氏と妻、やひそかに捕虜をかばった日本側の軍属の方のお姉さまも見えた。
収容所は「文化キャンプ」と呼ばれていたようで、捕虜たちは自国に向けた宣撫放送をさせられていた。その建物もすでに無かったが、訪れたドッズ氏の妻は「パパさん、ママさんに会って、お礼を云いたいのです」と夫から伝え聞いておられ、仁科さんに会いたがっていたことがいつまでも心に残っている。
続く