クリエイティブ・カフェ vol.1
井上雅義「北欧のデザインと社会──グローバル時代の北欧モダニズム」レビュー

カフェの始まり:クリエイティブに生きたい!──企画者のノートから

長沼行太郎

「北欧のデザインと社会──グローバル時代の北欧モダニズム」の様子
2009年4月17日 文化学院にて

このお茶の水界隈は40年ほど前にはカルチェラタンと呼ばれたりして、「学生街の喫茶店」のなかでは、ボブ・ディランやクラシックを聞くばかりでなく、革命談義も恋愛談義も読書会も行なわれていた。そんな喫茶店が段々に消えて、カフェ文化もなくなった。

この文化学院のなかで、カフェのような気軽な雰囲気で知的な会話を楽しみたい、ということから「クリエイティブ・カフェ」が始まった。

この学院に私はこの4月からの赴任で、勝手を知らなくて戸惑うことが多かったのだけれど、なにか提案を出し賛同者がいるとどんどん実現していく、「言い出したものがち」「始めたものがち」という学校で、このクリエイティブ・カフェも、新年度早々に始まってしまった。
早速、マネージャーがコーヒーメーカーを用意してくれ、本格的なコーヒーの味も楽しめることになって、首尾は上々……。

誰にどんなテーマで話してもらうか、あれこれ企画を立てるのはなかなか楽しいものだ。テーマの設定には時代の空気が読めているかどうかというスリルもある。
しかし、イベントは、やりっ放しで終わることが多い。ひとつのカフェが終わると次のカフェの企画と仕込みが待っている。思いはどうしてもそっちに向いてしまう。

で、ちょうどこのWebサイトが立ち上がるのを機会に、自戒をこめて、これまでのカフェを、企画したものの側からふりかえってみたい。
企画意図をできるだけ露出したレポートを心がけたいので、ゲストスピーカーになった方や、参加された方のなかから、また別のレポートを寄稿していただければ、イベントそのものは一回かぎりとはいえ、ひとつのテーマでの会話が、サイトのなかで継続・成長していくことも可能になるかもしれない。
そんな期待もあってのレポートです。(^_^)

なぜ北欧に注目するのか?

第1回のカフェは、2009年2月に文化学院で開催されたシンポジウム「21世紀、クリエイティブの挑戦」の延長上に設定された。

というのも、このシンポジウムで紹介されたアメリカの都市経済学者、リチャード・フロリダが、世界の「クリエイティブな地域」を比較して挙げたランキング表の上位に、スウェーデン、フィンランド、デンマークなど北欧諸国が名を連ねていたのが気になったからだ(『クリエイティブ資本論』、井口典夫訳、ダイヤモンド社、2008[原書、2002])。フロリダは、これらの地域を「警戒すべき競争相手」と指摘しているが、それ以上に踏み込んでいない。

同時にフロリダは、アメリカ社会がクリエイティビティとは反対の方向に進もうとしている、アメリカ社会が分裂していく傾向にある、と強い懸念を示してもいた(同上書所収、ペーパーバック版序文、2003年)。

シンポジウムが行なわれた2009年2月頃は、前年のサブプライムローンの破綻が拡大連鎖して、「アメリカ発の世界不況」の時代にはいるかという報道がなされ、超大国アメリカの没落がいつ頃になるかを予言するエマニュエル・トッドやジャック・アタリの説や、「ポストアメリカ」の世界秩序がどうなるのかといった問題に関心がいき、新自由主義で鳴らしていた日本の高名な経済学者が「市場至上主義はだめ」と転向宣言をして、北欧に注目を、と書いていた時期である。

「それなら北欧諸国のクリエイティブはどうなっているのか、北欧デザインの成りたつしくみは?」という疑問が当然湧いてくる。
このテーマで、初回のカフェのスピーカーを引き受けていただいたのが、シンポジウムに聞き手として参加し、タイムアップの直前に、質問・発言をされたジャーナリストの井上雅義さんだ。井上さんの質問・意見は要約すると次の2点。

(1)フロリダが手強い相手として挙げている北欧の社会にも、階層という意味での「クラス」があるのか?
(2)「クリエイティブ・クラス」ということばが一人歩きしている。ここで議論している「誰でもクリエイティブになれる」ということとフロリダの定義とのあいだには違和がある。

こんな問題意識も背景において、初回4月のカフェでは、同じグローバル化を前提としながらもアメリカ型モデルとは異なる道を歩む北欧社会に、デザインの面から迫ることにした。

井上雅義さんの発表

「北欧のデザインと社会──グローバル時代の北欧モダニズム」の様子

ゲスト講師の井上雅義さんは、1996年に共同通信を退職後、フリーのジャーナリスト・写真家として、北欧ほかヨーロッパの環境問題、建築、デザインの現地取材を続けている。このカフェには、260枚以上に及ぶスライドを用意してくださった。

内容は、2001年から4年連続で「国際競争力世界1位」(世界経済フォーラム)に選ばれ、優れた教育制度や福祉制度でも世界の注目を集めているフィンランドを中心に、つぎの4つのトピックをめぐる報告だった。

(1)ヘルシンキのデザインウィーク(08年9月~10月)
(2)スタジオ訪問(デザイナー、建築家、アーティスト)
(3)ガラスデザインの展開(イッタラ・ビレッジ~ヌータヤルビ)
(4)サステイナブル建築、森林資源の活用

デザインウィークの筆頭に紹介されたのは、小学生が「未来の建築」を考えるプロジェクトだ。このワークショップで、子どもたちを指導するのは、ボランティアのデザイナーや建築学科の教師たち。子どもたちがめいめい考えた未来の建築を紙や布などで帽子のかたちにデザインし、この「帽子の建築」をかぶってファッションショーをする。建築とファッションとをクロスオーバーさせるアイデアだという。
フィンランドでは小学校で建築のデザインについて教えている、という報告も驚き。

陶器で知られるアラビア社が、ヘルシンキの本社工場に若手デザイナーのスタジオを提供したり、ヘルシンキ芸術大学とオフィスや校舎、食堂をシェアするなど、デザイン分野でも「産官学」の連携が進んでいるという話など、個々の作品のアイデアもさることながら、デザインを生みだす社会的な条件にも目をみはるものがあった。

北欧のデザインは、細分化・分業化したアングロ・サクソンのデザインと異なり、ジャンルを超える傾向がある。その背景には、ピラミッド型のヒエラルキーをもたない社会構造、「福祉と成長を両立」させようとする社会民主主義の伝統がある。また、ここには、職人の手仕事がいまだに生きている。

もうひとつは、極地の厳しい自然環境から、エネルギー政策にみられるような、徹底した合理主義の思想が、デザインにも貫かれているということだ。

豊富な事例を報告されたが、カフェの準備過程で井上さんとやりとりしたこともふまえると、こんなことが眼目になりそうだ。

「北欧のデザインと社会──グローバル時代の北欧モダニズム」の様子

北欧のモダニズムと文化学院

限られた時間のなかで、井上さんは、1930年代、機能主義を批判し、地域の伝統文化との融合をはかったフィンランドの建築家アルヴァ・アアルトの仕事など、北欧モダニズムの源流にも言及してくれた。
アアルトは、スウェーデンのエレン・ケイの始めた「美しい生活」運動の担い手でもあったそうだ。

すこしく過去をひもとけば、文化学院に縁の深い建築家・坂倉準三は、ル・コルビュジェの弟子として知られているが、アルヴァ・アアルトはル・コルビュジエの知己であり、坂倉が1937年、パリ万博で設計した日本館のすぐ隣りは、アアルトのフィンランド館だった。そのときふたりには交流があったのだろうか。
また、エレン・ケイ女史の女性解放論や教育論は、やはり文化学院の創設者のひとり與謝野晶子に影響を与えている。

「芸術を生活に、生活を芸術に」という文化学院の歴史に北欧のモダニズムの流れがなんらかつながっているかもしれない。これ以上のことを私が知らないだけなのかもしれないけれど、そんなテーマも今後カフェで取りあげられたらよいなと思う。

クリエイティブとプロダクティブ

最後に、2月のシンポジウムと4月のカフェについて(私見)。

2月のシンポジウムではアメリカの「クリエイティブ・クラス」に着目したのだったが、4月のカフェでは北欧の「クラス(階級)のない社会」(社会民主主義の伝統)について、また、「クリエイティブがそんなによいことなのか?」(伝統工芸の尊重)ということについても考えさせられることになった。

後者の問いはちょっと唐突かもしれないけれど、たとえば、「退屈な仕事はロボットにまかせて、人間は人間にしかできない独創的なことだけに時間を使いなさい」と言われたら、ウーン、退屈な仕事もいやだけど、クリエイティブ競争に駆り立てられるのも苦しくてかなわん、ということになりそう。

でも、「クリエイティブに生きたい」という気持ちは私にはあって、うまく答えられないのだけれども、「クリエイティブはやっぱりいいものです」と答えたい気がする。まあ、クリエイティブといっても、とてもあいまいで、感覚的なものなのだけれども。

ただひとつ、リチャード・フロリダの言う「クリエイティブ」は経済競争力の観点から言われているものなので、むしろ、「プロダクティブ」ということを指しているのではないか、というのが私のフロリダ理解だ。経済価値を生むという意味での「プロダクティブ」である。
「クリエイティブ」の概念はそれよりも広く、商品生産の場面にだけあるものではない。

では、なぜフロリダが、「プロダクティブ」という経済タームを使わずに、「クリエイティブ」というタームを使ったのか。
それは、アメリカのクリエイティブ・クラスの仕事のスタイル(遊びと仕事のけじめの消失)、そのライフスタイル(ボヘミアン性、ゲイなどへの寛容)が、いずれ生産のあり方まで変えていく、いくべきだ、という、クリエイティブで人間を定義しようとする理念にフロリダが導かれているためだろうと私は理解している。
もちろん、これはこれで、先ほど述べたように厳しい人間観だ。

ちょうど北欧が、エネルギー政策にしても、商品・作品のデザインにしても、高齢者の医療・介護にしても、とことんコストカットとエコロジーと個人の自立力能を追求する徹底した合理主義に貫かれている、やはり厳しい人間観に立っているのと、どっこいどっこいだという印象ももった。

これからの日本は人間らしさをなにによって定義するのか。クリエイティブであることか、合理的であることか、それとも別の道があるのか。人間観は社会モデルの選択に直結してくる。アメリカ型のクリエイティブ・モデルとも、北欧型の合理主義モデルともちがう、日本型の社会モデルとでもいうものを編みだせるのだろうか。
私たちは時代の岐路にいながら、案外、こういう問題を自覚していないのかもしれない……このカフェではそんな思考課題が残った。

「北欧のデザインと社会──グローバル時代の北欧モダニズム」の様子

長沼行太郎
(ながぬま・こうたろう)
評論家。文化学院クリエイティブ・メディアセンター主任研究員、総合デザインコース講師。専門は近代文学、記号論、メディア論。高校・大学の教員を経て2009年より現職。著書に『思考のための文章読本』(ちくま新書)、『日本語表現のレッスン』(教育出版)、『嫌老社会 老いを拒絶する時代』(ソフトバンク新書)など。