思考のレッスン

長沼行太郎

第1章 命題を逆転する(続)

例題 「人間は言葉をもつ生物である」→「言葉をもつ生物を人間と呼ぶ」
   ──レヴィ=ストロースの人間定義

どこまでを「人間」の範囲に入れるか、人間の定義をめぐっては古くから議論が盛んで、人間のもついろいろな特徴をつかまえて、その命題を逆転させて、人間の定義につかっている。「道具を造るのが人間だ」「政治をするのが人間だ」「シンボルをあやつるのが人間だ」「幻想をもつのが人間だ」「オカネをつかうのが人間だ」「墓をつくるのが人間だ」等々、多種多様にある。

文化人類学者のクロード・レヴィ=ストロースは、道具をつくるから人間なのではない、言語をつかうのが人間なのだという明快な人間定義をくだした。

つまり、宇宙で未知の生物に出逢った場合、それを「○○人」などと呼んで「人間」の仲間に入れるべきかどうか、たぶん遠い将来そんな問題がもちあがるだろう。このとき、まよわず、言語が通じれば「人類」の仲間に入れる、というレヴィ=ストロースの発言がある。

仮に私たちが未知の惑星の上で道具を作る生物に出逢ったとして、それだからといって彼等が人類に属するかどうか確信はもてますまい。実際、そういう生物にこの地球上で出逢うことがあります、というのは或る動物は或る程度まで道具または道具の素描というべきものを造ることができるのですからね。しかしながら私たちは彼等が自然から文化への移行をなしとげたとは信じていません。だが、仮に、一つの言語を有する生物に突然出逢ったと仮定してご覧なさい、その言語が我々のとはまるっきり異っているが、我々の言語に翻訳可能で、従って、我々と意志の疎通のできる生物を……

(ジョルジュ・シャルボニエ『レヴィ=ストロースとの対話』、多田智満子訳、みすず書房、1970)

この対話は、その言語とはどんなものか、というインタビュアーのシャルボニエの質問でさえぎられるのだが、レヴィ=ストロースが、その生物を「人間」と呼ぶ、と明快に答えている点に変わりはない。

では、この「翻訳可能」な言語とはどんな言語か。それは「有節言語」、つまり分節された言語ということだ。ここには、言語学が発見した「分節」(articulation)という考え方がつかわれている。 簡単に言えば、人間の言語は、単語(記号素)に分解でき、さらに音(音素)に分解できる。そして有限の音の組み合わせから、単語がつくられ、文がつくられ、無限の思想を表現・伝達できる。これが有節言語だ。このことが、異なる言語のあいだの翻訳を可能にしている。他の動物が「言語」をもつと考える場合にも、有節言語は、人間だけがもつものとされる。

言語こそが人間を人間たらしめる標識であるという識見は、言語学に特権的な地位を与え、20世紀の一時期は、言語学が「諸学の王」の観を呈することになり、「構造主義」の流行を生んだ。

そのきっかけは、第二次世界大戦中、ナチスに追われてアメリカに亡命したユダヤ人の文化人類学者レヴィ=ストロースと、同じくナチスの弾圧を逃れてアメリカに渡った言語学者ロマーン・ヤーコブソンとの出会いにある。
レヴィ=ストロースは、言語学を、「科学の名を主張することができる唯一の社会科学」と呼んで、「関係の一般的理論としての人類学」を構想し(『構造人類学』、荒川幾男ほか訳、みすず書房、1972)、言語学の手法をつかって婚姻の規則を分析し、音韻の体系(母音の三角形、子音の三角形)にヒントを得て、「料理の三角形」(生もの/火にかけたもの/腐ったもの)という人類に共通する意味の体系を取り出した。
かたや、ヤーコブソンも、レヴィ=ストロースが依拠する3つの分野、社会人類学・経済学・言語学を統合したコミュニケーションの科学を構想し、その中心に言語学(記号学)を置いている。ヤーコブソンのこの構想の範囲は、さらに、生物学(DNA)、物理学(音響)など自然科学の分野にまで及ぶ野心的なものだった(『一般言語学』、川本茂雄監修、みすず書房、1973)。

人類学と言語学が、従来の専門を超える関係の科学またはコミュニケーションの科学というひとつの夢を共有した時代があったということだ。

ただ、「すべての問題は言語にある」「真の問題は言語である」とこの対談で言うレヴィ=ストロースのような考え方は、ここ三〇年くらいのあいだに、「言語学帝国主義」とか「構造の牢獄」と呼ばれ、人間を言語の構造のなかにとじこめてしまうものだとして、批判されてもいる。
だからもちろん、人間研究に明快な一歩を刻んだこのレヴィ=ストロースの考え方を、私たちは最終解答として受けとる必要はない。が、レヴィ=ストロースのこの考えを批判する場合には、いずれの日か、未知の生物に出逢って、それが、「人類」に属するのかどうか決めなければならない時のために、レヴィ=ストロースに替わる人間定義を用意しておく必要があるだろう。

例題 「芸術はたのしい記号である」→「たのしい記号を芸術と呼ぶ」
   ──鶴見俊輔の限界芸術論

芸術とは、たのしい記号と言ってよいだろう。それに接することがそのままたのしい経験となるような記号が芸術なのである。もう少しむずかしく言いかえるならば、芸術とは、美的経験を直接的につくり出す記号であると言えよう。

(鶴見俊輔『限界芸術論』、勁草書房、1967)

「芸術とはたのしい記号」→「たのしい記号が芸術」という文章冒頭のこの芸術の定義に、思わず大丈夫かなと不安になった読者も当時いたことだろうと思う。そんなら、ナンデモ芸術になってしまわないか、と。
そうだ、鶴見さんはその「美的経験を直接的につくり出す記号」をどんどん「芸術」のなかにほうり込んでいって、「芸術」概念を一挙に拡大したのだ。そして、「日比谷公会堂でコーガンによるベートーヴェンの作品の演奏」を聴くというような仕方でとらえられる従来の「芸術」観を、ほんの一部分としてしまうような広大な「芸術」の概念をつくりだした。

今日の用語法で「芸術」とよばれている作品を、「純粋芸術」(Pure Art)とよびかえることとし、この純粋芸術にくらべると俗悪なもの、非芸術的なもの、ニセモノ芸術と考えられている作品を「大衆芸術」(Popular Art)と呼ぶこととし、両者よりもさらに広大な領域で芸術と生活との境界線にあたる作品を「限界芸術」(Marginal Art)と呼ぶことにしよう。

(同上書)

初めてこの文章に接したとき、私は、権威ある芸術概念を類と種差とからなる重々しい定義文にしないで、「……と呼ぶ」の繰り返しで処理していくところに痛快なものを感じた。いまにして思えば、これも、「直線は2点間の最短距離を通る」→「2点間の最短距離を通る線を直線と呼ぶ」というような、命題の逆を利用する方法だったのだと思いあたるわけだが。

こうして、この文章では、盆栽、箱庭、おしんこ細工、花火、草履の鼻緒のハナネジリ、角ムスビ、米一粒の上にいろは歌を筆でかく細字芸術、民謡、盆踊り、川柳、鼻歌、身ぶり(泣き方、笑い方)、ゴシップ、命名、新語の製作、なぞなぞ、ことわざ、祭(「総合的限界芸術」)、民芸、建築、陶磁器など、大小さまざま、実に多領域にわたることがらを、「限界芸術」というひとつの概念で説明できるようにしてしまったのである。

とくに「限界芸術」の領域に注目したのは、芸術を純粋芸術ととらえると芸術が他の活動から切り離されて非社会化・非政治化してしまう、大衆芸術ととらえると芸術が他の活動に従属・奉仕するものになって過度に社会化・政治化してしまう、──芸術を限界芸術ととらえれば、「芸術そのものの観点につきながら……人間の活動全体を新しく見なおす方向をここから見出せるのではないか」、という考えからきている。はじめに芸術を「たのしい記号」と呼んでいたことがこの意図からわかってくるはずだ。

この意図は当たったと思う。鶴見さんが挙げた限界芸術の例を改めて眺めてみると、これらは現代社会でますます熱い関心をあびるようになっている領域だ。「たのしい記号」がアートなら、そういうアートはいま、どの分野でも求められているということだ。 これは多分に願望も混じってのことだが、「暮らしにアートを付け加える」というのではなく、「アートから暮らしを見なおす、作りなおす」という逆転が起きていると考えるとたのしい。

制度化され硬直化した概念を、もう一度、根源からとらえなおし、つくりなおそうとするときに、このような、命題の逆転の方法が有効であることの、これは先駆的な事例のひとつとなるのではないだろうか。

※続く

長沼行太郎
(ながぬま・こうたろう)
評論家。文化学院クリエイティブ・メディアセンター主任研究員、総合デザインコース講師。専門は近代文学、記号論、メディア論。高校・大学の教員を経て2009年より現職。著書に『思考のための文章読本』(ちくま新書)、『日本語表現のレッスン』(教育出版)、『嫌老社会 老いを拒絶する時代』(ソフトバンク新書)など。