文化力が日本を救う

戸田一雄

第6回 日本特有の文化へ(3)

(前回から続く)

2-6)幕末から明治維新の時代
○近隣諸国の惨状と、尊王攘夷の嵐

時代が幕末に入って様相が一変する。欧米列強による植民地政策が世界各地で展開され、東洋でもインド、ビルマ・マレーシアがイギリス領に、ヴェトナムはじめインドシナ半島がフランス領に、フィリピンがアメリカ領になる。インドネシアはオランダ領だ。植民地政策を取った各国は、原料の供給地、加工品の販売先として各植民地を使ったほか、鉱山の開発、森林の伐採などで現地の人々を酷使し、得られた莫大な利益を本国に貢いだ。植民地の技術振興・教育推進・文化向上など近代化に貢献した面もないではないが、現地の国民にとってプラスであったとは言い難い。
なかでも中国の惨状は目を覆うばかりであった。イギリスはインドで採れたアヘンを非合法的に中国へ輸出し、高価な価格で売りさばいた。中国(清王朝)はアヘン中毒による廃人が続出するとともに購入代金としての銀の著しい流出に見舞われた。百害あって一利なし。中国政府はアヘンの禁輸を決定。アヘン2万箱を押収し焼却した。これに抗議しイギリスは軍事行動に出、「アヘン戦争」が勃発する。2度にわたる戦争に中国は為すすべもなく負けてしまう。その結果中国はアヘンの輸入禁止ができなくなるとともに5つの港の開港=租界地設置を余儀なくされ、名門国家中国の植民地化という最悪の事態が大きく進んだ。

この中国の惨状は、上海との交流が多かった日本の上層部から庶民に至るまでいち早く伝わって、攘夷(外国人の排斥)論が沸騰してくる。ペリーが来る1年前に、幕府はオランダから『オランダ風説書』という年次報告書を受け取っており、ペリー来航の目的・時期、アメリカの開国要求内容などをかなり正確に把握していた。幕府としてもっとも恐れたのは、無用な刺激を外国に与え、無理やり戦争を仕掛けられた後に植民地化をさせられるシナリオである。それを回避すべく、知恵の限りを尽した。諸外国に先駆けアメリカとのあいだで通商条約「日米和親条約」を締結したのは、アメリカが当時きわめて紳士的で、武力による開港要求を禁止している(大統領令)ことを知っており、最初にある国と条約を締結すれば他国も基本的にそれに準ずるという国際法の解釈をよく知っていたからである。当時の老中であった阿部正弘の叡智である。
阿部はただ一つ、日本にとってプラスかマイナスかわからないが結果的に幕府の命を縮めた決定をしてしまった。それは、外様大名の意見を方向決定のなかに加えようとしたことである。徳川幕府は開府以来、譜代大名のみを、中央の政策決定に参画させる基本方針を貫いてきた。これは既に述べたように、関ヶ原の戦いの後、幕府を開くにあたって信用のおける大名=譜代大名の意見だけを取り入れ、老中任命対象にするなどの家康の教えを守り続けてきたためだ。しかし、老中・阿部のこの決定の時期はまさに国難、国の衆知を集め進むべき方向を決定しなければ、と思ったのも無理からぬことである。その結果、国政に対し発言をしたくてうずうずしていた薩摩や長州の意見も尊重せねばならないこととなったため、幕府内の国論は一気に二分され、思惑とは全く逆に混乱、対立関係が深まっていった。法案や政策決定の場に与党だけでなく野党も一緒に参画し、考えさせるという「超マジメ思考(?)」が混乱を起こし、幕府の弱体化を招く大きな原因の一つとなったのである。

勅許という言葉がある。天皇の許可である。それまでは勅許の申請が却下されることは殆んどなかった。ところが国論を二分する「開国」について天皇の勅許を求めたが、天皇の勅許は下りなかった。時の孝明天皇が反対したのである。どこまで天皇が国際情勢に精通していたかはわからない。この「勅許下りず」がもう一つのトリガーとなって、尊王思想が大きくなり、攘夷論と結びつけられ、一気に「尊王攘夷論」が大きくなっていった。スムーズに平和的開国に持って行きたいと思う老中のなかで急進派(当時では)の老中「井伊直弼」は反対派の封じ込めに乱暴な手を使う。「成功すれば国論が一つにまとまる!」の一心で。
井伊直弼は反対派を徹底的に弾圧し、攘夷派約100人を処罰した。これが水戸の浪士を刺激して「櫻田門外の変」が勃発し、井伊直弼は暗殺されてしまう。まさに混乱の極みである。ペリーが来てから、国を開放(鎖国から開国へ)し、幕藩体制を崩し立憲政治に変え、人々の生活基準を西洋文化の基準に変えるまで、僅か15年しか要していない。わずかのあいだに大変な革命を日本人は行なったものだ。こんな全面的な革命を短期間にしかも無血状態に近い状況で実現したのは世界史上あまり例を見ない。これができたのも、国民の政治意識のみならず情報入手力・経済力・文化力が、非常に高いことによるところが大である。

○最後の将軍 徳川慶喜の賭け

旧幕藩体制を壊して新しい政治体制を創るという考えも、当初同床異夢の感が強かった。徳川幕府最後の将軍徳川慶喜は状況をよく理解しており、次に来る政治体制は徳川幕府という形態とは変わるものの、徳川将軍を国のトップに据えた公議政体型の新政府樹立になるだろうと読み、大政奉還を申し出たようだ。新しい政権では、雄藩(主要なる藩)も入る列藩会議で政治の方向が決められる。そのなかには当然徳川氏も入っているというのが前提の考えであった。この考え方については雄藩諸侯はもちろん、倒幕派の重鎮岩倉具視も了承していた。将軍慶喜は周到に列強6カ国の外国公使を招き、新政府の外交権は依然徳川家に残ると説いて、事前に承認を得ていた。下手な反対の動きをして、朝廷から反逆の罪状(=逆賊)を与えられることを事前に回避したのである。
しかし運命は逆回転を見せる。将軍・雄藩諸侯の思いとは別に、薩摩藩が浪人を使ってわざと江戸の治安を乱し、それを取り締まる幕府側が取締り活動のなかで薩摩藩をはじめ討幕側に制裁を加えるように仕向ける策に幕府側がまんまと乗ってしまったのである。それを見た暴漢が江戸の薩摩藩邸(三田)を焼き討ちにする事件が起こる。薩長けしからぬ!の思いを江戸にばらまき、薩摩藩邸焼き打ちをきっかけに幕府側が倒幕派に戦をしかける策に幕府が乗ってしまった。会津藩・桑名藩も打倒倒幕に加わり、幕府のもともと和睦のつもりが一気に内戦へギアチェンジすることとなってしまった。将軍慶喜や雄藩諸侯のぎりぎりの折衝の努力は水の泡となった。鳥羽・伏見の戦いの勃発により最後の戦い「戊辰戦争」が始まったが、既に慶喜には戦う気持ちはなかった。倒幕の連中と一緒に、新しい国創りを考えていただけに、今更喧嘩もなかった。京都の鳥羽・伏見の戦いを尻目に、大坂城に居た慶喜は、闇に紛れてアメリカ軍艦により江戸に逃げ帰り、謹慎の意を表した。リーダーの敵前逃亡で幕府側の士気が上がる筈もない。戦は討幕側の一方的勝利に傾き、戊辰戦争は16カ月で終了した。慶喜のリーダーとしての資質について問題ありという論調が今でも見られるが、経過を見れば理解できる。ぎりぎりまで、新しい国体を詰めに詰めて最後の最後でどんでん返しにあった慶喜は、徳川最後の将軍として立派であったと言える。

○明治維新を構築した志士

1868年、明治維新がなされた。維新を成し遂げた主役たちの年齢を見ると、その若さに驚いてしまう。真の主役は前年に暗殺された坂本龍馬であった。龍馬はその時32歳であった。龍馬のほか、勝海舟:45歳、西郷隆盛:41歳、大久保利通:38歳、岩倉具視:43歳、木戸孝允:35歳、伊藤博文にいたっては弱冠27歳であった。

維新後の構想を描けていたのは坂本龍馬ひとりであったと言われている。あるいはその構想を共有できていたのは坂本龍馬と親交が厚かった西郷隆盛、勝海舟のふたりくらいではなかったか(もしかすれば、土佐の坂本の盟友、後藤象次郎もその他のひとりであったかもしれない)。
維新の主役を見ると、中堅の公家の岩倉具視を除き、ほとんどが貧しい下層の武士階級の出身である。志は大きかったが受けた教育は知れていた。若い年齢ながら戊辰戦争のリーダーになり、実戦で学んでいった連中である。
徳川幕府を倒してみたもののさてどうするのがよいのか、困ってしまったというのが本音ではなかったか。植民地主義の欧米各国は機会があれば日本を虜にという思いでこの国を狙っていた。そのため、とにもかくにも維新のリーダー達の頭の中は、旧幕藩体制を消し去った後に、欧米と対等の国を創ることしかなかった。しかも欧米と対等といっても相手がどのくらいのレベルであるのかもわからないなかでの話だから、危ないことこの上もない。幕末にペリーの開港要求に対する回答をするため、幕府遣外使節団がアメリカを訪問した時の興味深い逸話がある。「ホテルに泊まった時に案内された部屋があまりに狭くみすぼらしいので立腹していたところ、その部屋が突然上に向かって動いたので驚いた」という記述が残っているのだ。多少作り話臭い話であるが、当時の日本のリーダークラスでさえ、エレベーターの存在を知らなかったというのは事実であったのだろう。このことからも、欧米並みの国になるということがいかに高い目標であったかがわかる。

○幕末~維新の新文化——リーダーの苦労

この時代になって一気に西洋文化が日本に流入する。安土桃山時代におけるヨーロッパ文化の移入の主役がポルトガル・オランダであったのに対し、幕末から明治初期にかけての主役はイギリス・フランス・ドイツであった。衣・食・住などの生活様式もさることながら、法律から政治制度・医療・科学・軍事・教育に至るまで、日本人は急速な欧米化を志した。
明治4年11月、岩倉具視を代表とする岩倉欧米視察団が出発した。新しい国を創るのに、もう一度原点に戻り欧米の実力を学ばせて頂こうという大型視察団であった。団員は、大臣級の5人を含む総勢107名、アメリカを皮切りに、ヨーロッパ17カ国を歴訪して、政治・経済・文化の仕組みを約2年の時間をかけて悠々と視察し帰国した。道中のいろいろな出来事については、「岩倉欧米使節団」に関する著書が多数出ているので紹介は省略するが、新鮮な眼で欧米の実力を目の当たりにした訪問団の成果は大きかったと思われる。本国を空っぽにするくらい徹底して、一から外国の事情を調査した上で国創りをしようとした国のトップの素直さは凄いことだと思う。と同時によくもこの間、列強がこの国を侵略しようとしなかったものだ。ラッキーと言うほかないくらい、偶然の幸せを日本は持てたものである。

とにかく早く欧米の諸国家と肩を並べなければならないと、大変な覚悟で国創りをしている姿は、ある種の痛々しさを感じる。「国創りの源は人創りにあり」と勢い込んで創った教育制度も、とりあえずフレームを提示するくらいが精一杯で実態が伴わなかった。
そのなかで何とか格好がついたのが小学校の体制であった。というのも、当時の小学校の前身は江戸時代に確立していた寺子屋であり、江戸時代後期、寺子屋は日本国中で既に15000校あった。そのなかから、小学校というに相応しい優れた学校をピックアップしたというのだから、今更ながら江戸時代の日本人の教育熱心については頭が下がる。

先生不足も深刻だった。かしこい子は、小学校を卒業してすぐに代用教員の道に進むことが多かった。天才作曲家・滝廉太郎も東京音楽学校に入る前、14歳でふるさとの代用教員になっている(卒業しヨーロッパに留学、病についた)。
教科書もなかなか作れなかった。俳人・正岡子規は、故郷の松山中学に入学した時の思い出として、国語の教科書がなく、代わりに神社における神主の「祝詞」が使われたと回想している。

続く

戸田一雄(とだ・かずお)
文化学院理事長。滋賀大学・京都工芸繊維大学特任教授。1964年、東京オリンピックの年に松下電器産業(現パナソニック)に入社、音響ブランド「テクニクス」をはじめ、カーエレクトロニクス、家庭電化製品、AVC機器など多くの商品企画に携わる。松下電器産業副社長・松下国内マーケティング大学学長を経て、2007年より現職。