言葉の花束
「芸術映画」という内容空疎な観念。芸術映画というのは、芸術をもっとも欠いている代物のことだ。
──ロベール・ブレッソン
『シネマトグラフ覚書──映画監督のノート』(松浦寿輝訳、筑摩書房)より
生活とダンスを分けることはできません。時には、そうできたらとも思いますが、うまく分けられたと思うと、すべてはめちゃくちゃになります。ダンスは自分の身体を通してしか現われ出てこないからです。したがって、わたしたちは日常でもきわめて覚醒した意識をもつようになります。そうすると自分がいかにばらばらな、統合されていない存在かがよくわかります。そこから学ぶことはとても大きい。本質的に、身体の消滅や崩壊のほうが、身体の構築や強化よりも、貴重なヒントになるように思います。身体が自分のものでなくなる時に、それを観察する、それと会話する、そのほうが重要です。
──ウィリアム・フォーサイス 『フォーサイス1999』より
クロード・レヴィ=ストロース追悼
人類学者がフィールドに赴くとき、彼はつねに、すべてが彼にとって異質であり、しばしば敵対的ですらある一世界に身をおきます。彼にはそのとき、彼の生存と研究を保証するものとして、彼自身の自我しかありません。彼はまだこの自我を自由にすることができます。しかし、それはすでに、疲労、飢え、不快、既成の習慣との衝突、彼が予想だにしなかった偏見の出現等によって、肉体的にも精神的にも傷つけられた自我であります。自我は、この異質な状況との出会いにおいて、自らが選んだ歴史の試練によって、不具となり、不随となった自分自身を見出します。むろん、自我をこの試練にさらさねばならなかった一個人の歴史に、人類学者はその職業的使命の出発点において自ら責任があるのであり、さらに彼の歴史は、この新たな体験によってその流れを変えないではいないでしょう。こうして、民族誌学的体験においては、観察者は、彼の観察の道具そのものとして、自己を把握します。いうまでもなく、彼は自己を知ることを学ばねばなりません。自己を知り、自己に、すなわち自己を利用しようとする自我に対しては他者として現われる自己に、一定の評価を下し、それが他のさまざまな自己の観察に役立つようにしなければなりません。それゆえに、民族誌学の道を歩むものは、その原則をつねに、語られたものであれ語られざるものであれ、もろもろの「告白」の中に見出すのであります。
──クロード・レヴィ=ストロース
1908年11月28日〜2009年10月30日出典:
C・レヴィ=ストロース「人類学の創始者ルソー」塙嘉彦訳、1962年、ジュネーブにおけるルソー生誕250年記念祭における講演、『現代人の思想15 未開と文明』(山口昌男編集・解説、平凡社、1969年刊)所収。
若い読者へのメッセージ……
少なくとも一日一回は、
もし自分が、旅券をもたず、冷蔵庫と電話のある住居をもたないで
この地球上に生き、飛行機に一度も乗ったことのない、
膨大で圧倒的な数の人々の一員だったら、
と想像してみてください。──スーザン・ソンタグ 『良心の領界』(NTT出版)より
少しでも新しい文化生活を
人類の間に創造し寄与することの忍苦と享楽とに
生きる人間を作りたいと思います。──与謝野晶子「文化学院の設立について」
『太陽』1921年1月、『与謝野晶子評論集』[岩波文庫]より