HOME > 文化学院について > 戸田校長からのメッセージ「駿河台の風」
- 感激の波・波・波 「秋の集い」 (2009年11月16日)new!
- 教育熱心は日本の伝統 (2009年10月20日)
- 少人数教育 (2009年10月5日)
- 創立者 西村伊作 の故郷を訪ねて (2009年9月1日)
- 映画創り授業 第1回の試写会が開かれました (2009年7月31日)
[vol.15] 2009年11月16日
感激の波・波・波 「秋の集い」
10月24・25日の2日間にわたって、文化学院恒例の文化祭「秋の集い」が開催されました。
文化学院の「秋の集い」は学生・教職員・OBなどが総出で行われます。
もともと小さな芸術学校であること、学生の自由な発想による手作り文化祭にするという伝統に根ざしていることなどが、この様な総出のイベントとなっています。もちろん主役は学生たち。一人が2役も3役もこなし、準備から発表までこなしてくれました。自分の作品発表に加え、これだけの準備作業を抱え、よくこんなにエネルギッシュな活動が出来るなあ!と驚いたり感動したりの前日までの姿でしたが、いよいよ本番になって、学生たちの作品を見てさらに感動をしました。もともと3度の食事よりも芸術活動が好きで入って来る学生が大半ですから、日頃の姿からは想像もできない位の(失礼)素晴らしい個性の爆発を表現してくれます。そんな作品を見るたびにこの学校に居て良かった!と思います。ここで私の感激したもの全てをご紹介することが出来ないのが残念ですが、この「秋の集い」で味わった感激の2~3を紹介します。

1)高等課程1年生/演劇・音楽・ダンスコースの紹介ブースにて・・・
入学してから半年、この間の授業風景や成果を沢山の写真で紹介。
生徒の表情の変化、プロを目指そうとする真剣な目にどんどん変わって来るそんな姿が見られ、感激!
2)専門課程美術科の展示ブースにて
美術科の学生として始めての大作に挑戦。一切の制約無しに、自分の命をキャンバスにぶつけたフレッシュな挑戦力に感激!
3)専門課程演劇・声優コースの有志による演劇チーム旗揚げ公演にて
旗揚げ公演とは思えぬ力強く、きびきびした全員の演技に底知れぬ可能性を感じ感激!最後に全員で踊ったダンスが一糸乱れず凄い!とまた感激。
4)OB主催のトークショーを聴いて
日本のファッションデザイナーの草分け的存在であるOBの中村乃武夫さん(85歳)の日本のファッション史とも言えるご苦労話。男が入れなかった服飾モードの学校。文化学院のデザイン科設立で飛び込んだ男が日本のファッション界をどう作って来たか?ピエールカルダンとの出会いなど、興味深々のお話に感動!
挙げればきりがない位沢山の感動を作ってくれた今年の「秋の集い」に乾杯!
準備にあたってくれた、実行委員のみなさん、本当にご苦労さまでした。すばらしい「秋の集い」でした。
[vol.14] 2009年10月20日
教育熱心は日本の伝統
千葉県、房総半島には今でも「筆子塚」という塚が約3150ヶ所で見られます。これは江戸時代に房総半島各地に在った寺子屋の先生方が無くなった時に先生方を偲び、顕彰した石碑です。これらの石碑(塚)は、いかに当時の先生方が若い子供達の教育に情熱を注いで来たか、またいかに生徒達の親御さんが先生方の努力に感謝をしていたかが伺える歴史の証言物であります。
江戸時代は、国を挙げて教育に努力した時代でありました。各藩は、藩主自ら陣頭指揮の下、藩校を運営し、藩士(武士)が四書五経や蘭学などを学びました。中には庶民にも開放された藩校もあります。
また、主要都市には一流の教育者による私塾が開かれていました。代表的なものとしては、オランダ人・シーボルトによる長崎の「鳴滝塾」、緒方洪庵による大阪の「適塾」。また幕末・吉田松陰による長州・萩の「松下村塾」などがあります。各塾の塾生は、夜に寝る布団を使う間もなく、机に向かったと言われています。幕末から明治にかけての多くの日本のリーダーを輩出しました。

聖橋
庶民には7歳から15歳位の年齢の男女を対象とした寺子屋が設けられ、子供達は士・農・工・商の身分には関係なく集い、読み・書き・算盤(数学)・道徳(躾)を学びました。先生が何十人の子供をいっぺんに教えるのではなく、個人別教育に近い教え方をしていました。先生役は当時のインテリ層であった、僧侶・神官・浪人・医者などが請け負い、独自の教科書で熱心に教えました。教わる方も、寺子屋で学べば男子なら頑張り次第で武士や大店の番頭さんになれる可能性がありましたし、女子も武士や豪商宅にお勤めするきっかけとして寺子屋は重要なものでした。江戸時代の後期には全国に1万5千校、江戸市中で1500校もあったと言います。
1853年、アメリカのペリーが艦船4隻で浦賀沖に来ます。この時に、江戸の町は、日本の植民地化を心配する庶民で大混乱をしたと言います。何故日本人庶民が植民地化のことを心配するだけの知識を持っていたのか?興味深い事ですが、ペリーの来航より10年前のアヘン戦争で惨敗した中国・清の一部始終を日本人は瓦版や書物を通して知っていたからです。それも江戸時代後期の日本人の識字率(書物が読める人の比率)が90%と今の世界平均以上、当時の世界の中では群を抜く高さを持っていたためであり、寺子屋を始めとする教育機関の発達が日本をそこまでのレベルの高い国に押し上げました。
鎖国から、開国に代わって約40年後に日本は世界の列強国の一つにのし上がりますが、そのエネルギーの源泉は日本人の教育熱心にありました。
今再び教育の充実が叫ばれています。日本の教育の充実の一助になれることを嬉しく、また誇りにしながら、誠実に文化学院ならではの教育を推し進めて行きたい!と心に念じております。
[vol.13] 2009年10月5日
少人数教育
少子高齢化時代という言葉が、世の関心事になった草分けは、1993年に青森大学の古田隆彦先生が著わされた『人口減少ショック』(PHP研究所刊)だとお聴きしました。この少子化が、いよいよ現実の教育界における一大社会現象になってきました。
少子化現象自体、大学全入時代という、新しい現象を生みました。これが学生の側に立って良い現象になるのか、困った現象になるのかは、これからの教育に携わる我々の姿勢次第だと思います。絶対数の少ない中で学生を沢山勧誘したいがために、厳しい言葉の一つも言いにくくなるという話を聴かないわけではありませんが、対象の学生数が不足してきればこそ、一人一人の学生の質を高め、国の力の低下を防ぐという大きな目標実現の一助にわが「文化学院」もお役にたてれば・・・と考えております。
もともと私ども「文化学院」は、創立以来「少人数教育」を前提の教育をやってきました。文化学院創立者の一人であります「与謝野晶子」は、開校を前にした大正10年3月刊行の感想集「人間礼拝」の中で次のように言っております。
「私達の学校の教育目的は、画一的に他から強要されることなしに、個人個人の創造能力を、本人の長所と希望に従って、個別的に自ら自由に発揮せしめる所にあります。」また「出来るだけ個別的な教育を試みたいと思いますから、募集する学生の数は、一組3~40人に限っておくつもりです。」と言っています。

明治大学前
日本でも数少ない純粋芸術系の学校を89年間続けることが出来ましたのも、芸術系の学校の最も大切なところとして、個人個人の個性を見つけ出し、その個性を最大限伸ばそうという先人達のポリシーを大事にしてきたからです。そして今後もそのポリシーを大切にして行きたいと思っております。
また、この少人数教育を効果あらしめるための条件として、良い先生に師事して頂くことが挙げられます。素晴らしい先生の指導を少人数に限定したクラス編成で受けて頂くことで、初めてその目的が達成できるからです。
オープンキャンパス・体験授業をやっておりますので、ぜひ一度、私達の授業の様子をごらんください。
[vol.12] 2009年9月1日
創立者 西村伊作 の故郷を訪ねて
お盆の休みを利用して、家族全員を引き連れ「文化学院」の創立者である西村伊作の故郷、南紀の新宮市に行って来ました。
私どもの学校の創立者であり、明治末期から昭和の時代にかけて建築家として活躍した西村伊作。彼はまた、多くの日本を代表する文化人との交流を通し、日本文化の向上に大きな力を発揮しました。文化学院もそうした文化人の集まりの中から生まれた芸術学校です。
大阪から特急列車に乗っても4時間もかかる辺鄙な土地(おそらく、伊作が育った時代は、大阪に出るにせよ名古屋に出るにせよ1日掛りの旅だったに違いありません)・・・そんな土地からどうして当時の日本の先端をゆく文化人が出たのか?伊作が生まれ育った新宮の街はどんな開けた街なのか?その街で伊作一家はどの様な暮らしをしていたのか?に敬愛の念と共に大変興味がありました。
新宮の街はまるでフライパンの上に建っているような灼熱の街でした。心なしか東京と比べ、陽射しの眩しさは南国のもののように感じました。この南紀から、明治以降多くの移民が、アメリカやハワイに夢を求め出て行ったと聞きます。この街には今もそうした国際的な気質が根付いているのでしょう。明るい街でした。

駅から歩いて10分、モダンな家があちこちに見える一角に伊作一家が暮らした家がありました。今は「西村記念館」として、一般に公開されています。
一家が団欒の時間を過ごしたり、客人をもてなしたりした当時では珍しかったであろう「リビングルーム」(よくぞ明治の終りにこんなモダンな部屋割を考えたものだと感心しました。)は、窓を開け放つと南の海からの乾いた風が吹き込んで実に快適です。外見は2階建ての建物ですが、地下の部屋(井戸が掘られている)と、3階の貯水室は結ばれており、マニュアル操作で地下の冷水を3階の貯水タンクに汲み上げ、水洗トイレを使用したとお聴きし、そのモダンな生活の考え方に伊作の生活観が偲ばれ、またこの街がアメリカと深い文化交流があったことが伺えます。(おそらく、便器一つまで、アメリカから運んだのでしょう、確認は出来ませんでしたが。)比較的モダンを上手に受け入れた新宮市だったのでしょうけれど、その中で伊作はベストモダニストに輝いていたに違いありません。
記念館の中に、伊作の絵画や陶芸の作品が沢山並べてあり、改めて多彩な文化の交流をした伊作の多能さを窺い知ることが出来ました。
まさに今日の「文化学院」の文化の原点がここにもありました。来年4月に創立90年を迎える「文化学院」の原点を訪ね、改めて一層の文化学院の健全な運営を決意した次第です。(話が一寸固くなってしまいました。)
ご親切に対応をして頂きました館長さん、家族で立ち寄ったお寿司屋さんの奥さん(居場所案内のため、熱い中店頭に立ち私達を出迎えて頂いた。)など、暖かい新宮の人達の心に触れることも出来た、素晴らしい旅でありました。
[vol.11] 2009年7月31日
映画創り授業 第1回の試写会が開かれました
ご承知の皆様も多いと存じますが、文化学院では、この春から高等課程において、全員に(音楽・ダンスや、文芸を目指す方も含めて全員)映画創りを必修授業として行っています。
映画は、シナリオ制作から、演技、舞台装飾、効果音樂に至るあらゆる文化の集大成であると共に、チームワークが無ければ生まれない、大変奥深い文化です。
全員が7つのチームに分かれ、全員がシナリオを考え、チームのテーマを選び役割分担を決め、ヨーイ ドンで映画創りをスタートしたのが、入学間もない4月の後半。
もちろん誰もが映画創りは初めての人ばかりですが、現役の映画監督(花田 深 監督)を始め、7人の先生が見守る中で、第1回目の挑戦目標「ドキュメンタリー作品」の制作が始まりました。
高等課程では基礎の教育(パソコン操作を含む)を徹底する文化学院ですが、この映画創り教育は、高等課程の生徒の自主性を存分に尊重し、自分達で相談し、全員で悩み、全員で突破口を見つけ出す教育に徹しています。

全員の苦労の結晶が6月末に完成し、7月17日に関係者・ご父兄など外部の方々をお招きし、試写会が行われました。
私も7つの作品を繰り返し見せて頂きました。見るまでは、果たして映画のかたちになるんだろうか?という不安感もありましたが、作品を見せて頂き、その不安は吹っ飛びました。高校生らしい初々しい中に力強い人間の生きざまを掘り下げた作品や歴史上の大事件や、歴史を誇る商品の今昔を見るなど、立派な作品ばかりで、驚きました。
丁度野球の世界で、プロ野球の華麗でダイナミックなプレーに魅入ると共に、高校野球のひたむきなファイティングスピリッツ、涙のプレーに感動するのと似ているなぁと感じた次第です。
ご出席のご父兄の皆様からも、熱き評価と、ご感想を頂き、これまた大感激です。
手探りみたいな気持ちでスタートした、高校生への映画創り教育、きっと素晴らしい成果が出ると、熱き思いでスタートした教育ですが、楽しみながら、人間の本質をも考える場になってくれることが伺え、一層力がみなぎって来る気持です。
各先生はじめ、ドキュメンタリーの収録にご協力いただきました地域の皆様、本当に有難うございました。これからも宜しくお願い致します。

- 理事長・校長

- 1941年 大阪府生まれ
2006年 松下電器産業(株) 副社長/2007年 松下国内マーケティング大学学長/至現在 滋賀大学 特任教授/京都工芸繊維大学 特任教授

